前ひさし氏は、日本共産党・和歌山県委員会副委員長を務めるベテラン政治家であり、2025年参議院選挙において和歌山選挙区から新人候補として擁立された。新人といっても、実際には今回が4度目の国政挑戦であり、長年にわたり地域と党活動に根を張ってきた人物である。1956年、和歌山県古座川町に生まれ、県立古座高校から南九州大学園芸学部に進学。卒業後、1986年に日本共産党へ入党し、以来一貫して共産党活動に身を投じてきた。北部地区委員長や常任委員など党の要職を歴任し、2024年からは県委員会副委員長を務め、地域組織の運営と党勢拡大の中心的役割を果たしている。
選挙挑戦の歴史も長い。1992年、1995年、2022年と3度にわたり参議院選挙和歌山選挙区に立候補したが、いずれも当選には至らなかった。そして69歳を迎えた2025年、4度目の挑戦として再び国政選挙に名乗りを上げたのである。6月11日、県庁で正式に出馬表明を行い、和歌山における「暮らしと平和を守る政治」の必要性を強調した。
前氏の政策の柱は、共産党らしい「生活者重視」「平和主義」に基づくものだった。まず経済政策においては、消費税を緊急に5%へ減税し、将来的には廃止を目指すと明言。財源は大企業や富裕層への応分課税で確保する方針を掲げ、物価高や実質賃金の低下で苦しむ国民の暮らしを直接的に支えることを訴えた。加えて、最低賃金の引き上げ、年金水準の改善、医療・介護体制の充実を強調し、「誰もが安心して暮らせる社会」の実現を目標に掲げた。
安全保障政策に関しては、地元和歌山に関わる問題に真正面から取り組んだ。南紀白浜空港が「特定利用空港」に指定され、将来的に自衛隊や米軍の軍事利用が可能になることについて強く反対し、「観光と平和の拠点である白浜を軍事拠点に変えてはならない」と主張。地域の安全保障と住民生活の安心を両立させる立場を鮮明にした。こうした姿勢は、基地問題に不安を抱える地元有権者の心情に訴えるものだった。
さらに、共産党が掲げる「企業・団体献金を受け取らない」という理念も繰り返し強調。政治とカネをめぐる問題が全国的に批判を浴びる中で、「政治は国民のためにこそあるべきだ」とする前氏の主張は、清廉性を重視する有権者に一定の響きをもたらした。
選挙戦においては、前氏個人の戦いにとどまらず、野党共闘の象徴的な位置づけを持った。立憲民主党の藤原規眞衆院議員や共産党の穀田恵二前衆院議員らが応援に入り、「市民と野党の共闘で勝てる候補」として前氏を前面に押し出した。和歌山は与党の地盤が強固な地域であるが、野党勢力がバラバラでは勝ち目がないとの認識から、前氏は「唯一の立憲野党候補」として共闘の旗印を掲げたのである。
しかし、現実は厳しかった。長年の活動にもかかわらず、共産党自体の支持基盤が限定的であること、さらに和歌山という地域特性から自民党や保守系候補が依然として強い影響力を保持していることは大きなハードルだった。結果として議席獲得には至らなかったものの、前氏の存在は「市民と野党が共闘して挑む姿」を可視化する役割を果たしたといえる。
今回の挑戦は、単なる一候補者の落選にとどまらない意義を持っている。和歌山において、市民と野党の共闘が具体的な形となり、それが選挙戦を通じて有権者に示されたこと自体が大きな一歩だった。前氏自身も「日本共産党を伸ばして暮らしと平和を守ろう」と呼びかけ続け、最後まで諦めることなく活動を貫いた。
総じて、前ひさし氏は「和歌山における共産党の顔」として長年活動してきた政治家である。当選には至らなかったものの、庶民の生活防衛、平和憲法の堅持、地域主権の尊重といった理念を訴え続ける姿勢は、一貫して有権者に向き合う誠実なものであった。彼の挑戦は、国政の場での成果には結びつかなかったとしても、「地域に根差した政治家が理想と信念をもって戦い続けること」の価値を示すものであり、和歌山における市民と野党の共闘の歴史に確かな足跡を残したといえる。