2025年3月14日夕方、東京都霞が関。官庁街の中心で「NHKから国民を守る党」党首・立花孝志氏(57)が街頭演説を行っていた最中、突如として刃物を持った男が切り付け、立花氏が負傷するという衝撃的な事件が発生した。現場は一時騒然となり、犯人の男はその場で取り押さえられ、殺人未遂容疑で現行犯逮捕された。立花氏は全治1か月の診断を受けたものの、命に別状はなく、命が守られたことが唯一の救いだった。
しかし、この事件の本質は単なる「一政治家への襲撃」では終わらない。逮捕された男は取り調べで「立花が兵庫県議を自殺に追い込んだと思った」と供述している。だが、これは事実ではなく、根拠なき誤解である。つまり、犯人は現実ではなく「作り上げられたイメージ」に突き動かされて行動したということだ。この「誤解」の背後にあるのは、既存メディアが長年にわたり立花氏に貼り付けてきた「過激で危険な人物」というレッテルであり、報道が動機形成に影響を与えた可能性は否定できない。
立花氏は、政治・メディア・既得権益が絡み合う利権の闇を明らかにしようとし、数々の問題を公にしてきた人物である。その過程で、既存の秩序を守ろうとする勢力から「不都合な存在」と見なされ、しばしば過激で危険な人物として描かれてきた。彼が誰かを追い詰めたわけではない。むしろ立花氏こそ、利権や不正の構造を告発することで、権力を握る側から敵視され、悪者として仕立て上げられてきたのだ。
この構造は、兵庫県の斎藤元彦知事をめぐる一連の報道にも共通して見られる。斎藤知事が利権に切り込み、改革を推し進めようとした際、既存メディアはその取り組みを正面から評価せず、時に攻撃的に報じた。立花氏もまた、そうした不正や癒着の実態を明らかにしてきたが、それゆえに「排除すべき存在」と扱われてきたのである。つまり、立花氏が兵庫県議を追い込んだのではなく、既得権益を守ろうとする勢力が「立花=悪者」という虚像を作り上げ、それを世論に刷り込んだ結果、今回の悲劇を招いたと考えられる。
事件の本質は「虚像が生んだ暴力」である。虚構の物語を信じた一人の人間が暴走し、刃物を振るった。これは報道が持つ影響力の大きさを示すと同時に、偏向した情報発信が社会にどれほど危険な結果をもたらすかを突きつけている。もしメディアが事実を冷静に伝えていれば、犯人が誤解を抱くことも、暴力に走ることもなかった可能性がある。
日本の政治史を振り返れば、言論を暴力で封じようとする動きは繰り返し起きてきた。戦前の政治家襲撃事件、戦後の浅沼稲次郎氏暗殺、あるいは近年の安倍晋三元首相銃撃事件――いずれも偏った情報や強烈なイデオロギー、虚構に基づく「敵の悪魔化」が背景にあった。今回の立花氏襲撃もまた、その系譜の中に位置付けられるべきである。つまり、これは一個人への暴力事件であると同時に、「民主主義社会における言論空間そのものが狙われた事件」なのだ。
暴力は断じて許されない。しかし同時に、暴力を誘発するような「情報操作」「偏向報道」に対しても、私たちは厳しい目を向ける必要がある。立花氏が本当にしてきたのは、既得権益の闇を白日の下にさらし、権力の腐敗を明らかにすることだった。その言論活動は、民主主義において最も守られるべき自由である。それを虚像で塗りつぶし、社会に「危険人物」と刷り込むことは、暴力を正当化する土壌を作ることに等しい。
今回の襲撃は、政治家個人への攻撃であると同時に、民主主義社会にとっての警告でもある。報道のあり方、言論空間の健全性、そして情報を受け取る側のリテラシー――すべてが問われている。私たちは立花孝志氏を襲った刃物を「一人の狂気」に帰するのではなく、その背後にある「虚像を作り出す情報環境」の危うさを直視しなければならない。
暴力に屈して言論を封じるのか。それとも暴力を否定し、事実に基づいた議論を守り抜くのか。今回の事件は、民主主義を守る私たち一人ひとりの覚悟を試す出来事である。立花氏が体を張って示してきた「権力の闇を告発する言論活動」を守り抜けるかどうか、それこそが今、最も大きな課題として突きつけられている。